人として生きる

お久しぶりです(恒例の挨拶)

別にこれで収益上げるわけじゃないので。

 

今回は人として生きる。タイトルが壮大すぎる。一平凡人間の書く内容じゃないと思うん。別にそんな壮大なことを書きたいわけじゃないです。好きなアニメのセリフにあったから印象にあるだけで…

 

人間、ていうより生き物は日々成長していきます。成長が止まると退化していきます。だいたい20代前半くらいまでは成長するんだろうか?つまり、今、私は、退化している!!!衝撃的な事実。うわーーーーーーーー。

しかし、いわゆる精神的なもの。思考、判断などなどはひたすら成長できるらしい。重要なものはおっきい人がするのはそういうところもあるかもしれない。大人になるということは、こういう部分が成熟していくということでもあるのかもしれない。

最近どこからともなく流れてきたもので、人は行動を起こさなければ成長できない。と言っているのを見た。なるほどなぁと。行動して、それが成功した。失敗した。どんな結果になったかという経験を得られる。行動が多いほど経験が積み重なる。積み重なった経験は成長に繋がるし、自信に繋がる。らしい。確かにそういうこともあるかもしれない。

どうだろうかこうだろうかって考えて何もしないよりも、なにか行動に起こして結果を見る方がいいよね。とは思う。怖がっててもしかたないところあるし。

 

失敗は成長に繋がるという。失敗は成功の元とも言われている。しかし、失敗を失敗と感じることができる感性がないと難しい話ではある。失敗を感じない人なんているのか?と思うかも知れない。失敗を失敗と思ってない人、いっっっっっっっっっっっぱいいる。毎日いる。失敗というのは些細なこともある。ありがとう、ごめんなさい、おはようございます。挨拶ができなかった。それも細かい失敗。落ちているゴミを気づけなかった。気づいたけど無視した。一応細かく見たら失敗ではある。個人的な見解すぎるとは思う。失敗を認めたくないというところもある。俺は悪くねぇ!!!!って思いたい気持ち。わかる。俺も失敗したって思いたくない。だってやだもーん。でも、失敗は失敗なのだ。失敗は認めないと、受け入れないと成長には繋がりません。自分の現状を素直に受け入れる心が必要なのだと思う。

 

相手を思いやるということも経験なのだろうか。相手を傷つけているということを気づけるようになるには失敗という経験が必要なのかもしれない。その失敗を認めるためにはその失敗による結果を得ないといけない。結果がないと人間は失敗と認識できないかもしれない。結果のない失敗は失敗ではない?

仲違いというのは、「相手と仲良くする」という目的においては失敗と言ってもいいのだろうか。ケンカしているということは、失敗していると言ってもいいのだろうか。その時点で失敗ということを気づけないのであれば…?最悪の場合、関係性が決裂することになる。まぁそもそも性格的に合わなかったら仲良くなることはないので。ただ、距離が近ければ近いほどすれ違いは起きやすいもので、細かい方向性の違いは起きる。それを修正するためには失敗に気づけるかどうか。もしかしたら今日も失敗しているかもしれない。今、仲良くしておきたい人と、これからも仲良くいるためには、細かい失敗に気づいて行動することが必要なのかも知れない。

 

もしかして、学生の(若い)頃に人間関係を沢山経験している方が人生において有利かもしれないし、それらが必要になる社会人で効果を発揮するのかもしれない。卑屈と反省は別物。今自分に必要なのは学生時代に得られなかった「経験」なのかもしれない。